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| は じ め に |
| 健康こそ生活の基本である。 体の調子が悪いと、人間は消極的になる。意気も消沈して、仕事に対する情熱、ファイトも欠けていく。まさに、健康があっての人生である。 また、健康であってはじめて健全な、ゆとりのある考えが生まれ、他人のことにも思いを馳せることができる。 だから、極論すれば、洋の東西を問わず、健康な人間が増えれば増えるほど、やがては世界の平和に通ずる道といえるのではないだろうか。 国家間においても、自分の国をよくしようとするならば、まわりの国も平和でなければならない。「自他共栄」である。そういう、健康な、心のゆとりをもつ人々が多くなってはじめて、他国のことを心配するゆとりができる。 しかし、その健康は、だまって待っていても、やってくるものではない。他人から与えられるものではなくて、自分自身つくっていくものである。「自力更生」という言葉もある。自分で、たゆまず、日々繰り返し積み重ねてこそ得られるものである。あわてず、あせらずに励むことがたいせつである。・・・・・・ 楊名時太極拳の目ざすところは、「健康・友好・平和(和平)」というスローガンに示されている。 |

| 我 為 人 人 |
| 「我為人人」は、文字どおり、私は人人のために役立つということだが、裏には、結果的には、みんなも私を大事にしてくれるという意味が含まれている。しかし、まず、みんなのために、自分が奉仕することが必要である。先に結果を求めず、努力することである。花咲くことを先に望んではならないが、種をまけるときは種をまくことである。・・・・ 八段錦・太極拳を通じて、人のために奉仕し、人の健康づくりに役立ちながら、自分の健康づくりにもなっていることをありがたいことだと思う。 「我為人人」は、鑑真和上のお心でもある、と思う。・・・・ |

| 鶴 の 舞 |
| 私は、太極拳を演舞するとき、鶴が飛翔する姿を連想し、その優雅で繊細な動きに近づきたいと念じている。そこで、太極拳を「鶴の舞」と紹介している。 もともと太極拳は、鶴と蛇の闘争からヒントを得て創作されたと伝えられている。鶴は亀と並んで長寿のシンボルであり、お祝いごとに必ず登場する動物である。鶴がどのように体を動かし、どのように呼吸するかを克明に観察し、それを人間に当てはめたら、人間も動物と同じように長生きできるのではないか-これが太極拳の発想である。太極拳だけでなく、護身術、ひいては外敵から身を守る武術の源である。 太極拳、八段錦の源は、こうした動物の動きに学んだ昔までさかのぼることができ、さまざまなエッセンスをとり入れて今日まで伝えられてきた、貴重な文化遺産である。 太極拳は型こそ鶴の動作を多くとっているが、動きは亀の歩みに似て非常にのろい。そして丸く柔らかい。しかし、たゆまず練習を積み重ねると、ついには健康という勝利を得ることができる。その意味でも、太極拳は日本人に愛される鶴と亀の長所を兼ね備えた医療体術だと思う。 |

| 気 功 |
| 気功は中国医学の遺産、養生学の一部分であり、数千年に及ぶ長い歴史を有するものである。その間絶ゆまざる創造と改良、実践を通じてみがき上げられた”経験の宝”ともいえるもので、簡便、有効、易学、易行の自我鍛錬方法である。そして、老若男女を問わずだれにでも実行でき、自己の健康管理と疾病予防に役立つことから、現在の中国では、人々の手近な健康法として親しまれている。 気功は静功と動功に大別されるが、静功は体や手足を動かさないで「気」を鍛錬するものである。静功は一般の静坐とはちがい、一定の鍛錬姿勢、呼吸、精神統一を伴う運動で、松静功、内養功等がある。 動功は鍛錬時に手足の動きを伴うものであるが、いわゆる普通の肉体運動とは異なる。一定の鍛錬姿勢のなかで、精神と動きを呼吸で結ぶ高度な精神集中が必要となる鍛錬方法なのである。太極拳、八段錦、五禽戯等が動功に含まれる。 気功は姿勢、呼吸、精神統一の三結合がなされたとき、最大の効力を発するが、なかでも呼吸の鍛錬は重要視される。呼吸は人体の生命活動にたいせつで、生をうけ、それが終わるまでとどまることなく生命を刻むからである。私は「心・息・動」を統一するように言っている。 呼吸法は、気功の基礎であり、健康法として単独に用いても効果がある。かつて道家(老子、荘子の教えを奉じる人たち)では、不老長寿の仙法として、「吐納法」あるいは「吐納術」といわれる術を秘伝にしていたが、これは呼吸法のことである。 |

| 心 の 静 け さ |
| 太極拳には、禅的要素が深くはいり込んでいる。 禅は、あくまで信仰の世界である。それは仏教の無常観に深く根を下ろしたもので、人生を旅とみなし、道のないところに「道」を求めるという、真理探究者としての旅人たる人間の姿勢を確立するものである。「道」を求めるということは、とりもなおさず、「いかに生きるか」ということにほかならない。 変遷やまない現世において、このことは永遠不変なるものを自己の中に見いだすことである。その永遠不変なる境地とは、「静」であり、「柔軟心」であり、「無」である。 太極拳においては、自然、無我の境地で、腰を軸に手足の.バランスをとり、一定の速さを保ちながら、ゆっくりした柔軟な動作が要求される。このしなやかな動作は日本の能の所作に似ており、手足、指先、目、気(心)を丹田におくことなどもみな相通じている。 能役者は能面をかぶって、その内心や表情を外面にあらわさないが、習練に習練を重ねた域に達すれば、生命のない能面が生き生きとしてくる。太極拳も同じである。極端にむだを除去した能の所作と太極拳の動きは、型を繰り返し練習することによって得られる内面の優美さ、ゆとり-心の静けさという点で通じている。 |

| 太 極 拳 と 血 液 |
| 人間は食べ物によって性質、体質が違ってくる。東洋人はおもに植物性を多くとり、西洋人は動物性の食物を好む。西洋人の体格は大きく、喜怒哀楽を表面にあらわしやすい。反対に東洋人の体格は比較的小柄であり、性質は淡泊なものである。 いわば淡白なものを食べれば、性質も淡々としている。また耐久力は、粗食であればあるだけ強い。木を食べてでも、精神的に耐えることができる。 太極拳は、深く静かな呼吸とゆったりとした動きによって、イライラした酸性の血液を弱アルカリ性に変えることができる。運動後、全身じっとりと汗ばみ、気分が壮快になるのは、このためである。 しかし、一度運動すればそれでいいかというと、そうはいかない。太極拳効用の持続は、一日が限度。したがって日々さわやかな気分で過ごすためには、毎日稽古をしなければならない。 健康づくりは、だれかやってくれるだろうか? だれもやってはくれない。自分一人でやらなければならない。 理論、知識を百かかえていても、身体を動かす実践を経なければ、なんの役にも立たないのである。生あるかぎり稽古し、稽古を通して体質が変えられ、健康が保持されるのである。 |

| 順 天 者 存、 逆 天 者 亡 |
| 私の座右銘だが、意味は宇宙自然に順応する者は栄え(生き続ける)、叛く者は滅亡するというものである。 中国古来の哲学は、宇宙を基準にした自然哲学であり、人間も一個の独立した小宇宙と考えるわけである。宇宙は限りなく広く、極(こだわり)がなく、自在(調和)である。 この自然の法則を、私たちに当てはめてみるならば、まず体の根幹を足(土踏まず)におき、全体の要を腰におく。特に丹田に気を集中し、大脳は無念無想、心を静かに、そして体を柔らかく動かし宇宙の気を身体のすみずみまでゆきとどかせる。これが健康になる秘訣であり、またすべての芸術の道、武道の道の行きつくところであると思う。 |

| 説 出 便 俗 |
| 説出便俗とは読んで字の如く、ああだ、こうだと理屈めいたことを言えば俗っぽくなり、そのもののもつ奥ゆかしさ、優雅さが失われてしまうという意味である。つまり言葉で表現できるものと、不可能な場合がある。恋人たちに言葉はいらない。もし、愛の言葉を探し当てたとしたら、およそキザで俗っぽいものとなり、興ざめすることであろう。 そのように、太極拳の心を、始める前にかくかくしかじかと説明できるものではない。かりにできたとしたら、稽古という貴重な体験が生まれてこない。わからないということは自分で「やってみよう」といぅ心の踏み台になる。 太極拳のような心象の世界は、結局、言葉では表現不可能なもので、五年、十年、ニ十年と稽古を積み、春秋の機微を自分の心で受けとめ、体で感じる奥ゆかしさをもって、はじめて自分のものとなるのである。 無言の太極拳指導、これは私の遠い夢である。 |

| 知 足 者、 常 楽 也 |
| 「知足者、常楽也」は、私が自分自身に言い聞かせていることでもあるが、満足を知る者はつねに楽しいという意味である。人間、夢をもつことは必要だが、といって、いつも不平不満を言っていては、心がまずしくなる。満足を知ることによって楽しみが生まれてくるのである。 足ることや限度を知ることは、謙虚でなければならないし、心の平安につながる。それは心だけでなく、体の健康にもかかわってくる。 私は、一日一日を精いっぱい生きて、その夜、ぐっすりと熟睡し、明日に期待をかけることにしている。 |

| 信 心、 決 心、 恒 心 |
| まず、「信心」。第一に、学ぼうとすることを信じなければならない。自信をもつこと、自覚をもつという意味も含まれている。・・・・ まごころを伝えるものでなければならぬ。学ばうとすることを信じ、あるいは、つきあう相手、友人を心から信頼する。しかも、自覚をもって、自信をもって心から信ずることがなければ、すべてが始まらない。いったん信じた以上、次は「決心」である。心を決めて、実践に移るのである。いったん決心したからには、ぐらついてはいけない。 三番めは、「恒心」。つまり、持続する心、持続していつまでもいつまでも変わらない心のことである。ぐらつかぬ心である。日々継続して努力を積み重ねていくことである。 この三つの心は、太極拳を学ぶ場合のみならず、人生万事に通じるのではないかと思う。 しかも、肩肘の力を抜いて、心をひろびろさせて、気持よく、楽しく身体を動かすことである。このことは健康法につながる。日々健康でなければならない。 |

| 延 年 益 寿 不 老 春 |
| 中国に、昔から伝わる太極拳のことわざである。 簡単に日本語に訳すと、年齢を延ばして寿命に益をもたらす、年をとらないわが世の春、ということになる。 太極拳をやっていれば、年輪を加えつつも、ふけないで、若々しい情熱を保つことができる、と解釈してもいいだろう。 このことは一個人にとってはもちろん、企業にとっても組織にとっても、望ましい姿であろう。 |

| 功 夫 不 騙 人 |
| 太極拳運動は、全身の筋肉を緩め、ふだん使わない筋肉も平均して使うため無理なく体を動かす。しかもその動きが丸く、ゆっくりしたものなので、各人の体調に合わせたトレーニングが可能になってくる。 運動後は全身の筋肉がほぐれ、血行がよくなり気分が和らいでくる。 太極拳の稽古を一年、二年と積めば、必ず身体によい変化を生む。その変化が本人に意識されない場合があるかもしれないが、身体を通した実践には、それぞれの年月に応じた成果がつく。技というものは、本来そういうもので、いくら器用でも一〇年は二〇年を越せるものではない。 |

| 梅 花 耐 風 雪 |
| 梅花耐風雪 到時放雅香 梅の木は風雪に耐えて立っているが、時到れば花咲き、雅香を放つ、という意味である。 梅の花が香ばしい匂いを放つには、風雪に耐える月日が必要になる。と同様に、春先に比較的暖かい日が続いていても、本格的な春になるには、まだ寒い日を経験しなければならない。 太極拳も同様で、毎日の稽古を積み重ねてこそ、よい結果が得られるのである。これは太極拳以外にも言えることではないだろうか。結果ばかりを急いで得ようとしないで、求めずして得るという気持で日々習練、努力を積まなければならない。結果を期待しすぎて、望みどおりにならなかったらガッカリする。あまり即効薬的に効果を期待しないで、風雪に耐えながらもコツコツと努力を重ねることがたいせつだと思う。要は根気と努力である。 |

| 三 分 吃 薬、 七 分 養 |
| ・・・意訳すると、病気を治すには薬を飲むことが三分で、あとの七分は養生することであるという意味である。つまり、薬に頼ることよりも自分自身で、自ら治していくことがたいせつだというわけである。 さらに、導引といって、中国で道教の人が昔から行なってきた、長生きの秘法ともいわれるものがあるが、早朝、新鮮な「気」を胸いっぱいに吸い込んで、まんべんなく体中にゆきわたらせること --これを「行気」というーーは、現代にも通ずる呼吸健康法である。意をもって気を導くという言葉もある。こういう場合の「気」とは、吸い込まれた新鮮な空気だけをさしているのではなく、その空気とともに、内臓に吸い込まれてくる、宇宙にみちあふれた「神気」あるいは「活気」が、神秘的なエネルギー源になるのである。つまり、生きる力である。その「気」を体中に、思うところにめぐらせることが、導引の要である。・・・・・ それには、気長に、毎日積み重ねて稽古することがたいせつで、あまり効果を早くあげようとあせってはならない。大自然にまかせておけば、この神秘的な小宇宙である人間の体は、きっとよくなる。それを信じ、そして、おこたることなく実行することである。私たちの修行のたいせつさのゆえんである。 これが中国の「気功」であり、この「気功」を頭の中に入れて行なう太極拳は、「気功太極拳」となる。 |

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